フォトグラファー – 柴田 大介
《ウェディングの世界へ》
「結婚式は最高級のサービス業。だから常に自信と誇りを持って接客するんだ」
生まれ育った地元・神奈川県のとある結婚式場でサービスの派遣バイトを始めた二十歳頃の僕は、出勤初日からいきなりベテランのおばちゃんサービススタッフにそんなことを教わりました。
「バイト初日のヤツにそんなこと言う?」という気持ちもありましたが、学生に混じって数名いるおばちゃんたちは誰よりもテキパキと仕事をこなして、飲食の提供に追われる中でもさりげない気配りを欠かさず、新郎新婦の勤務先の社長や親戚・両親といった方たちがみな喜んで彼女たちにお礼を言って去っていく。
人見知りでサービス業の経験もなかった僕はそんな光景に衝撃を受けて、いつしか彼女たちのように目の前のお客様に喜ばれる仕事をしたいという気持ちが芽生え、ブライダルの世界に入り込んでいきました。
《バンケットキャプテンとして》
当時会場を仕切るキャプテンが不足していたその式場では、物覚えは悪いけどいつもフル出勤できて、飲み会に誘われたら必ず参加して
先輩たちの熱量の高い言葉を明け方までずっと聞いていた僕を、先輩たちが一生懸命面倒をみてくれました。
やがて数年が経つと周りと同じだった制服は黒服=タキシードに変わり、一瞬の間を掴んでスムーズに進行を進め、
披露宴を作り上げていくキャプテン業務に楽しさを覚えていきました。
そして少しずつ増えていった後輩スタッフに対して、いつしか冒頭の言葉を投げかける立場になりました。
《フォトグラファーへの転身》
そして大変な仕事も難なく回せるようになってきた頃、ある日の披露宴でたまたま僕の会場にやってきた女性フォトグラファーに目を奪われました。
その女性はカメラマンであるにも関わらず、サービススタッフに負けない気配り力を周囲のお客様に発揮して、いつかのおばちゃんスタッフのように
お客様が喜んでお礼を言って去っていく。
その様子を見て、彼女の撮った写真をみた訳でもないのに「きっと彼女の写真はお客様に喜ばれるものに違いない!」と何故か確信した僕は、
「キャプテン経験者の僕がフォトグラファーになったら披露宴が更に上手くいくに違いない!」と思いが飛躍しました笑
そんなことを思いつつも、当時業界でも前例のなかったジョブチェンジには勇気が必要だったし、
カメラなんぞまともに触ったことのなかった僕がフォトグラファーとして通用するのか?一人前になれるのか?という迷いがありました。
しかし幸運にもその式場に出入りしていた撮影会社が新人スタッフを募集していること、そしてなんと同僚キャプテンが結婚をキッカケに正社員採用してくれる会社を探していて、
その撮影会社に就職しようとしていたことを同時に聞きつけて、彼に便乗して同時に採用してもらえることになりました。
その会社では結果的に取引先から二人も引っ張ることになったため、色々と話を通すのが大変だったとあとになって聞きました。
今考えたらかなり強引な行動でした笑
そうして願ってもないタイミングで撮影会社への転職を果たした僕は、全くの未経験からフォトグラファーとしての道を歩み始めることとなりました。
《初めて指名を受けたお客様との出会い》
転職から実務をこなしながらフォトグラファー修行を積み、1年ちょっとが過ぎた頃には撮影業務もそつなく行えるようになり、
さらなるステップアップのため近隣他式場への異動が言い渡されました。そして数ヶ月間慣れない環境で実務・撮影を行っていると、
異動直前に商談を担当した新郎新婦から当日の撮影をお願いしたい、とプランナー経由で依頼が来ました。
いわくそのお客様には相性の合わないスタッフが数名いたらしく、プランナー自体担当替えを経て二人目。
当時僕も少しだけ身構えて商談を担当したのですが、第一印象で大丈夫そう、と感じてくれたのか緊張している僕をみてニヤニヤしながらいじってくるお二人。
そしてそのお二人に限って商談以降もたまたま会って撮影の相談など受ける機会が多く、信頼していただけたのだと思います。
そんなお客様からのご指名なので、すでに他式場に異動しているのは承知の上でどうにかお願いしたい、と会社に依頼が入り久しぶりに
慣れ親しんだ式場に伺うことになりました。
そして迎えた挙式当日。まさかの台風直撃。
ホテルだったので影響を受けるのはオープンカーでのチャペルへの移動と、式後に鳴らすウェディングベルやフラワーシャワーくらいなのですが、
それこそが売りの式場なだけに支度中はずっと窓の外を気にする新郎新婦。
しかし挙式が終わる頃には奇跡的に雨があがり、フラワーシャワーは中止になってしまったものの少しだけ外に出てウェディングベルを鳴らしたいお二人。
普段なら進行を式場スタッフに委ねて許された時間だけ撮影を行っていましたが、このあとの流れと導線を調整したらここで数分は確保できる。
知り尽くした会場の流れの知識とキャプテン経験を活かした調整力が初めて噛み合った瞬間でした。
ゲストにはお披露目できなかったけど、その日のエンドロールに組み込んでお見せすることができた二人だけのウェディングベル。
会場の隅で映像をみていた新郎と目が合って、お互いに称え合った記憶は忘れられません。
もう何年も前の話ですが、このお客様とは今でもSNSで繋がっていて時々お目にかかる間柄です。
《栃木県へ移住・妻との出会い・和装との出会い》
異動先の会場でも撮影・実務にだいぶ慣れて後輩も入社してきた頃、突然本社に呼び出しを受けて言い渡されたのは新たな異動。
行き先は栃木県。そして新たに取引を始める式場の担当営業として、立ち上げの為ひとり移住することに。
右も左も分からない土地で、自分の経験してきたことを活かす機会が与えられました。
入社直後から教わっていた和装振付の技術は、神殿をかまえていて和装前撮の多いこの式場で大いに役立ちました。
そしてこの移住がキッカケで、のちに妻となる女性・奈々子と出会うことに。
交際からかれこれ10年近く経ちますが、当時はまさか結婚して娘をもうけるなんて思いもしなかった。。。
《独立》
移住してからの数年間は大変だけど非常に充実した時間でした。志を同じくする仲間にも出会い、非常に高い熱量で仕事に向き合っていました。
しかしある時期、知り合った仕事仲間が次々と転職や異動で離れていくことに。同じ式場に出入りする関係でありながらそれぞれ別の会社だったので、
現場で関わる以外にもそれぞれの会社や個人の事情を抱えていました。
そして熱量を分かち合う仲間が去っていくのを見送りつつ、「自分ひとりでは何もなすことはできない、知らない土地で知り合った彼らに支えられて今の自分があるのだ」
と強く実感するようになりました。
僕が所属していた会社でも先輩社員の退職・独立が一人、また一人と現れた時期とも重なり、
また栃木移住以降のキャリアプランが見えなかった会社の方針と自分がやっていきたいこととの乖離に悩むようになりました。
しかし自分のやりたかったこと=ロケーション撮影を極めたい思いが勝り、我慢できずなかば衝動的に独立を決意。
そんな自分の転身にあわせて、ブライダル業界への復帰をおぼろげに考えていた妻にヘアメイクへの転身を迫り、いつか二人でチームを組んで活動したいと
考えるようになったのは、栃木移住から5年が経った頃でした。
確固たる営業ノウハウも人脈もお金も持たずに、知り合いの少ない土地での独立を決めたのは相当に無謀でした。
徹夜でホームページを作っても全くアクセスがない、せっかく問い合わせが来てもやりとりが続かず失注。
移住して新たに始めた趣味・スノーボード好きがこうじて挑戦したウィンタースポーツの業界でも、仕事と呼べるようなレベルの案件は中々回ってこない。
独立当初から同居を始めた妻には今も相当な負担をかけつつ、支えてもらいながら日々生活しています。
《妻との結婚》
妻に負担をかけながらも食いつないでいた2019年ごろ、スキー場の仕事で知り合ったケータリングが得意な料理人と出会い、
チームを組んでオリジナル結婚式のプロデュースを始めようと企画していました。
そしてそのテストケース「入籍式」で自分たちが結婚する。
つまり、友人が見守る中で妻・奈々子への公開プロポーズを企てました。
計画が持ち上がったのは1月ごろ。そこから4月に決行するために打ち合わせを重ねていきました。
そして本番まであとひと月、という3月頃に、妻から受けた妊娠の報告。
「子供が産まれる!嬉しい!」
「待て待て、2人の家計も危ういのにもう1人増えてもやっていけるの?」
「一度始めたプロポーズ作戦、もう後戻りできない。。。」
いろんな思いがグチャグチャと頭の中を駆け巡る。
そして迎えたプロポーズ当日は妻の誕生日。
妊娠の報告を受けた頃からずっとつわりで体調が悪く、当日も動きたくないと言われたらどうしよう。。。と不安だったものの、奇跡的に調子良さそう!
「これはいける!」と安心したのはいいけど、何を口実に会場まで連れ出すか考えてなかった。
グループLINEには着々と進む準備の様子が送られてくる。外出を拒まれたらこの日のための準備が台無し。
自分でもよく覚えてないのですが、散歩に行こうとかちょっとその風にあたりに行こうとか、わけわかんないことを言いながら連れ出そうとしていたそうです。
なんとか会場まで連れ出すことに成功。平日にも関わらず集まってくれた友人たちに囲まれるなか、プロポーズにOKの返事をもらい、
婚姻届に署名をして作戦完了。ケータリングの料理を囲んで和やかにパーティーを行いました。
でも当時の僕はプロポーズするための段取りに頭が一杯で、婚姻届をいつ提出するのか全く考えていませんでした。
「市役所はこの後行くんでしょ?」
「えっ?どうしよう?」
「えっ?今日行かないの?」
「えっ?」「えっ?」
としょうもないやり取りを交わしてしまい、ようやく提出についてその場で調べ始める始末。
しかし入籍に必要な戸籍謄本が、神奈川まで帰らないと手に入らない。。。
「無理だ。。。」と諦めかけたのですが、たまたま別件の為に取った謄本がまだ残っているのを
思い出して、奇跡的に当日中に提出することができました。
僕がお願いした以上に会場の設営や装飾に励んでくれた友人達には感謝しかありません。
実際の様子はダイジェストをご覧ください。
無事に入籍を果たした僕たちですが、仕事は中々上向かず苦しい時期は続きました。
心折れて自宅に篭ってゲームばっかりしていた時期もあり、不安が募りつわりで気分も良くない妻とは喧嘩ばかりしていました。
しかし、妻の体調も良くなってきた夏以降は色々なことが駆け巡りました。
前職の業績悪化で営業継続が不可能となり、急遽現場引き継ぎの依頼を受けて慌てて会社設立に奔走したこと。
何とか体制を整えた臨月期、その年一番の大入り日に台風の直撃を受けて車を2台失い、膝上まで来る洪水の中妻を連れてご近所さんの2階に避難したこと。
大変なこともありながら無事娘を産んでくれた妻には感謝しています。
《コロナ禍とFruits Photo発足》
妻と娘も退院して色々なことが落ち着き、やっと仕事も安定するようになったと思った矢先に始まった新型コロナ騒動。
3月まではお客様の意向もあってなんとか決行、しかし4月以降は軒並み延期・キャンセルの連絡。
忙しくなるはずだった向こう半年の案件が全て吹っ飛んだ時、「終わった。。。」と思いました。
当たり前だった常識が目の前でどんどんと崩れていく感覚。半年前に想像していた今は、二転三転してもはや未知の世界。
少しずつ盛り返してはまた自粛を繰り返す、先の見通しがつかない毎日。誰もが過去に前例のない時間を過ごす中、
「自分たちにとって結婚式とは?」
「いまこの時代に通用する自分たちの強みとは?」
「コロナに振り回せれない仕事の仕方とは?」
と、色々な思いが日々頭の中を巡っていました。
しかし、そんな中でも妊娠前から妻が挑んでいた美容師免許を21年5月に取得。一度は不合格だったものの再挑戦して合格しました。
そしてそれを機にFruits Photo発足。最初は和装ではなくファミリーフォトと洋装ウェディングからのスタートでした。
長引いたコロナ禍も悪いことばかりではなく、本来なら仕事で後回しにしていた妻・娘との時間をたくさん持つことができました。
特にあっという間に過ぎる新生児・乳児期の娘との時間は夫婦ともに貴重で、かわいい娘の日々の成長を目にすることができたのは幸せです。
《再び和装と向き合う・振付講師を目指す》
コロナ禍で苦しい時間をすごしながら、改めて自分のやりたいことやできること、フォトグラファーとしての強みを整理していました。
ありがたいことに在職中に相当な件数を撮ることができた和装前撮。
そして挙式当日の撮影だけでなくロケーション前撮に全力を注ぎたかった独立当時。
しかし今の自分はその点と点が繋がる場所にいない。だからこそ、もう一度和装の撮影に向き合ってしっかりと自分の強みにしたい。
そんな思いが高まったときに思い出したのは、前職の先輩であり、和装撮影のパイオニアであるphotohome kitaiの北井さん。
自身もフリーのウェディングフォトグラファーとしてお客様の支持を得ながら、在職中に指導を受けていた振付師・船橋先生と共に
「和装写真 一匠」として和装写真に関わる人達の技術向上の為の講師活動を行っています。
和装とロケーション撮影を極める。そして栃木・北関東でも美しい和装写真を広めていき、一つでも多くの美しい和装写真をお客様の手元に届けたい。
方向性が定まった僕は、(またも衝動的に)講師資格の取得を目指す決意をしました。
和装振付講師という、業界に携わる人でもまだ聞き慣れない肩書を得るため、ひたすらに始めた再学習。
栃木で沢山撮ってきた経験はプラスになると思いきや、大きな足かせになりました。
学んだはずの振付技術はいつの間にか基礎が自己流になっていて、崩すのが難しい。
新たに覚えることよりも、古いものを捨てることのほうに時間がかかりました。
そして講習を重ねた末に無事試験に合格。資格取得を決意してから半年ほどの出来事でした。
《日光との出会い》
資格を取るまでの過程が、和装に携わる様々な方と繋がりを持つキッカケとなりました。
その中で、日光という街が和装の撮影にふさわしいのでは?という提案を頂いたのが僕の日光との出会いでした。
神奈川県民にとっては修学旅行の定番。栃木に来てからは何度か行ったことがあったけど、それほど縁のない近くて遠い街でした。
そしてあらたな目線で訪れた日光は、僕たちにとってこの上なく美しい、和装の撮影にふさわしい場所でした。
中禅寺湖の湖面は日差しを浴びてキラキラと眩しく、緑は季節ごとに様々な色合いに変わる。そして目の前にそびえ立つ男体山は
見るものを圧倒するスケールで、訪れた観光客の脳裏に焼き付く光景でした。
点在するお寺や世界遺産などの歴史深い施設も数多く、このロケーションで僕が撮る和装写真はきっと美しくなるはず。
そんな思いを強く抱き、妻と話し合いの上日光を撮影の拠点とすることに決めました。
そして活動も和装一本に絞る決意を固め、和装特化の撮影チームとして活動しています。
《今後の目標》
僕たち夫婦が愛する日光を拠点に、一組でも多くのお客様に美しい和装写真を提供していくことが僕たちの使命です。
美しい和装写真を広めていくため、技術の研鑽を重ねながら僕たちの活動が広く伝わっていくよう努力しています。
ヘアメイク – 柴田 奈々子
《ウェディング業界に入るきっかけ》
学生時代はスポーツばかりの生活でお化粧なんて何一つ知らない子でした。ウェディング業界に興味を持ったのは高校生の頃、進路に悩んでいた私。
美容学校のパンフレットで存在を知り一目惚れしました。
《プランナーからヘアメイクへの転身》
美容学校のブライダル学科を卒業後、ゲストハウスのプランナー部門で約3年勤務。しかし自分の仕事のできなさに「お客さんに迷惑をかけてしまう」と挫折し退職。
他業種でアルバイトをしていた期間、ウェディング業界のやりがいを忘れられず戻ろうか悩んでいた時に当時お付き合いしていた彼(現夫)に「手に職をつけて業界に戻ってみては?」
と勧められたのがきっかけでヘアメイクをどう始めたら良いか調べ始めました。
美容専門学校出身のため最低限のメイクや皮膚科学の知識はありましたが、あくまで学校での知識、お客様に提供できるような技術は全く持っておらず、ヘアメイクを生業としている方にお話を聞いて周り、”未経験でも研修を受けさせてくれて、デビュー後もたくさんのお客様を任せてもらえる件数がある会社を探す”と自分の中で選択肢を絞った結果、大宮のブライダル美容会社に就職、そこから大宮へ通いの日々が始まりヘアメイクとしての経験を積み始めます。
プランナーの経験も活かせて、結婚式当日を新郎新婦に1番近いところでサポートをしたい。過去にやりきれなかった分、この仕事に全力を注ごうと決意した瞬間です。
《技術職で生き抜く大変さを知る》
ヘアメイクデビュー後、自分1人で新郎新婦の案内も慣れてきた頃とある花嫁様との出会いが技術に対する考えを改めるきっかけとなりました。
当時、話題になり始めた「東京駅で前撮りをしてきました」という花嫁様の結婚式の担当をする事となりました。
その方は前撮り時には界隈で大人気のヘアメイクさんに担当してもらったとの事で、当時経験がまだ浅い私にはとてつもないプレッシャーでした。
なんとかその花嫁様のヘアメイクリハーサル、挙式当日までご一緒したのですが挙式数日後、花嫁様のSNSで私の名前の公開はなかったものの
「挙式は良かったのにヘアメイクさんだけ残念だった」
という投稿を見つけ、目の前が真っ白になりました。
「経験が浅いから失敗して当たり前」と一瞬頭を過りましたが、1人でも花嫁様を満足させる事ができなかったことが悔しく、すぐに大人気のヘアメイクさんのセミナーに参加し、
ヘアメイクのセミナーはもちろん、人気ヘアスタイルの研究により一層の時間を費やすようになりました。
その後は今まで以上に「綺麗にしてくれてありがとう」「あなたで良かった」
との声をいただく事が増えたと実感しました。
これを機に一つの結婚式場の中だけでの知識では花嫁様を満足させきれないと思うようになり、フリーランスとして活動されている人たちの技術や知識に興味を持つようになりました。
《美容師免許と結婚、妊娠、出産》
ヘアメイク業にも慣れてきた頃、そろそろと思い美容師免許取得を目指し美容学校通信課に入学、仕事をしながらの免許取得に向けた勉強スタート。
通信学生2年目の3月にフリーランス活動を始めるとほぼ同時に妊娠発覚。当時は「私はまだまだやりたい事がある。自分のために時間が使いたい」と妊娠に前向きではなく
「妊婦をやめさせてくれ」と泣いて夫に頼み込んでいた私。今考えればとても酷いことを夫に言っていました。夫は「お前と家族になりたい」と何度も説得してくれました。
しかし、妊娠により周りからの気遣いを受ける事に悔しさを感じ、それを散らすように「妊婦だからって関係ない」と自分の中で休む理由にせず普通の人と同じような仕事量をする事を望み出産予定日1週間前まで現場で仕事をし、通信学生の実習授業も受けていました。
妊娠後期には夫が「結婚式場と撮影の契約をする事になった。1ヶ月以内に会社を設立する」と急な話があり、協力する・しないの返事をする間も無くバタバタで自宅を事務所化したり仕組みづくりをし、夫婦で式場の写真部業をスタートしました。
私の妊娠期間中、仕事がなく家でゲームばかりしていた夫にようやくご縁が舞い降りてきました。
しかし会社を立ち上げ約1ヶ月後、そして臨月に入る日、2019年10月12日の台風19号「ハギビス」により自宅周辺が浸水、夫婦の愛車2台も水没による全損。
出産予定日までに次の車を見つけねばと駆け回る日々を過ごしました。
怒涛の妊娠後期を過ごし2019年11月13日、愛娘が誕生日。最初の陣痛が始まってから3日間陣痛と闘い、最終日の夜は夫と実母が交代で朝まで付き添ってくれました。娘と会えたことでやっと妊娠に後ろ向きだった自分を説得し続けてくれた夫と私たちを選んでくれた娘に感謝をしました。
余談ですが私達夫婦の初めてのデートも同じ11月13日だったことにあとから気づき、運命めいたものを感じていました。
《子連れ家業のスタート》
娘の首がすわる頃、世間では新型コロナウィルスの流行が始まりました。提携会場様からは結婚式の依頼は激減するも撮影だけの依頼はなんとかもらえる。
しかしアルバイトさんを呼ぶのはご時世的に難しくなり夫婦で交代でおんぶして結婚式の現場に出ることを決意。
ここから業界でもあまりみない子連れ撮影業がスタートしました。
《試験合格とFruitsPhoto発足》
2021年5月17日、娘のお昼寝や寝かしつけ後などに時間を作って練習、勉強を進めていた美容師の勉強も1度は不合格だったものの2度めの試験で合格し免許取得をしました。
それを機に本格的に夫婦で撮影業を頑張ろうとFruitsphotoを発足。更に2022年より婚礼和装専門に舵を切り、現在に至ります。
MESSAGE
私は成人式の写真にあまり良い思い出がありませんでした。
ですが時を経て今自分がヘアメイクアーティストとして経験を積み、和装のポージングや着物のラインを綺麗に形にしてくれる最高の技術を持った夫と共に、
和装写真チームとしてクオリティの高い和装写真をお届けできることにとても喜びを感じています。
もちろん今も夫は和装写真を、私は流行のヘアメイクの追求と練習をお互い続け夫婦共に技術を磨くことにも時間を使っています。
古き良き日本の伝統衣装を着るからにはロケーションだけでなく、花嫁さまの美しさを最大限引き出すメイクアップ、指先から足元まで綺麗なシルエット、全てにこだわりを持っていただきたいと思います。
歴史深い世界遺産の町・日光で、いつまでも美しく残るお二人の記念撮影のお力になれる日を、夫婦共々楽しみにしております。